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大学院に入って数か月がたった。気がつけば下期を迎えている。考えてみれば、勉学以外にもいいことがたくさんあった。特にあげるとすれば、人に歩み寄ることについて学べたことだ。というか、普段の行動とは、違った行動をとることの重要性ということなのかもしれない。僕自身、非常に自由人でわがままな性格なために、鵜呑みのまま人の考えに従うことをあまり得意としていない。プライベートなことならいざしらず、特に仕事に関して自分のやりたくないことであれば、ほとんど従わないことが多い。

上司から言われようと、社長から言われようとやらないことが多い。その分喧嘩も絶えないし、解雇になるリスクにさらされるわけであるが、幸いなことにいまだ解雇になった経験もない。(もちろんすれすれのことは多くあっただろうし、あくまで自己評価でもあるのだが)大学院にいる自衛隊に所属している先輩からは、「反発をするから服務規定違反になるし、自衛隊には向いていないよ」とよく言われる。そう、たしかに向いていないと思います。

一方で、肯定的な意見もあって、自分軸がしっかりとしているとか、プリンシプルをもっていると、やりたいことが明確になっているとか、こんな身勝手な人間ながらも、人並みに評価をされているように思っています。ただ先日、本当にこれでいいのか、と立ち止まって考えたことがあった。

あるプロジェクトを組むことになり50代の男性や20代の女性とメンバーとプロジェクトを組んだ。僕はリーダーになってタスクが円滑に進むようにマネジメントをした。2か月間毎日のように顔合わせしているので、思い通りに進めようとする自分が当然のようにでてくる。そして当然のようにメンバーとの衝突を繰り返すわけだ。しかし、何かの拍子で自分の思うように進められない苛立ちからか、ふと立ち止まって考えて、あることに気付いた。いったい僕は何と戦って、何を獲得したいのだろうか、と。

大学院では様々な優秀な人がいて、しばしば彼らの能力に翻弄されることがある。時に、私の主張に対して論理的
にまっとうなことを言われ、面を食らうこともあれば、一方で卓抜とした巻き込み力によって自分の意見を変えざるをえないこともあった。その都度、自分のスタンスらしくないと思うわけなのだが、不思議と彼らの主張を認めざるを得ない。僕が僕なりに気づいたのは、こうした出来事の延長線上にあって、僕は何かと一生懸命戦って、何かを獲得してきたつもりではあったが、結局のところ人に救ってもらっていただけではないのか。あるいは、僕は自分で思っているほど、何かができているのではなく、その都度、周囲の人に気を遣わせていたのではないか、と。今のところ、僕はこの時の気づきのようなものを得て、今ではなれもしない、人の積極的な呼びかけや、ひたすら人の話に耳を傾け、グループでの最適解の出る方向を支援をするつもりで人に歩み寄っている。(つもり)そして今においても、この違和感は絶えることはない。

そんなこともできないのかと思う人はたくさんいるだろうし、当然、相対的にみれば、大層なな学びであったというほどのしろものではないかと思う。しかし、当事者の僕にとって、今までと違う行動をとるというのは、2足歩行を達成した人類が最初の一歩を踏み出したくらいに挑戦的で、センセーショナルで、歴史的な出来事だ。僕が僕以外の誰かに歩み寄ろうとする小さな一歩は、今の小さな僕にとって、小さいながらの価値がある。
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物事には必ず二つの側面があると聞きますが、半年も過ごしていると良きにせよ悪きにせよ、多様な大学院の陽と陰を見ます。例えば僕にとっての「陽」とは、人との出会いであり、教員との出会いであり、新しい知識との出会い。また「陰」とは時間がとられることや、会社で文句を言われるくらいだと思っています。

この陽と陰は、僕以外の誰かにとってもそうなのだろうと思います。いいと思うこともあれば、悪いと思うことがあるのは、至極当然のはず。実際に半年もたつと、多くの人の「陽」を聞くことがあれば、一方で、「陰」について聞くことも多くなってきました。この「陰」とは、主に授業に対する不満で、特に半年間にわたって、デザインメソッドを活用してイノベーティブなソリューションを出すプロジェクトに対して集中しているように思われます。時間がとられすぎるとか、修士論文と関係ない、とか、他国から持ってきてた技法をただ、使わせている、などなど。

敬すべき同期生の人柄や想いを察するに、当然のことながら、悪意に基づくものではなく、愛ゆえの好意ある指摘なので、正直これらの意見に親しみを感じてしまう。ただ一方で、ある種の違和感を感じてしまうのも否めない。

まず、僕らは何かしらの意図や目的があって、自分で選択をして大学院に入ってきたはず。選択に基づく行為や意志の責任は、本来自分に問うべき。その方が精神衛生上健康的だと思う。機会を提供してくれない、とか、これは関係ないとか、これはやりたいことではない、など、多様な主張はあろうかと思うけど、自分の意志で参画をしたのであれば、どのような機会であれ、自分で足を踏み出し、腕を伸ばして、手を広げて掴み取るべきだと思う。

ある種の曖昧模糊としたある種の意義や意味などの価値とは、与えてもらうものではなく、闇と雲の中で必死にもがいて、自分で獲得する以外にない。解釈はその後で行えばいいと思っている。

昨今の新入社員が自分の望んだ会社に入ってきて、「やりたいことがこの会社で実現できません。僕はこの仕事やりたくありません」を嘆くことが多いと聞く。何も経験したことがない、彼らにいえることは、「やってみなはれ」くらいしかない。

新人と同じ、ということを毛頭いうつもりはありませんが、自分たちが言っていることをメタで考えて、一度考え直してみませんか。SDM一年生なわけですし。「ま~、とりあえず、やってみよっか」と。

それから同様の類で、大学院でイノベーションが生まれていない、という声が多い。実際には水面下の取り組みになっているので、日の目を浴びていないだけのことだが、個人的には、イノベーションが創出されていないのであれば、自分たちがイノベーションを作ってしまえばいいと思ってしまう。

「先人達が出来なかったので、出来ません」という主張は理解できるのだが、前述のとおり、我々は大学院に入学することを選択したはず。であれば、「出来るか、出来ないか」ではなく、「やるか、やらないか」で判断すべきではないか。いや、どちらかといえば、「やる」しかないと思う。

誤解なきようにいいたいのは、これだけのことを言っておきながら、僕自身が一番大人げなく、何かをいう立場にはないことは多分に理解をしているつもりでいる。

ただ、少なくとも僕は、この期間に想定以上の何かを獲得して卒業をしたいと思っているし、必ずそれが出来ると信じている。そして僕は、敬すべき方々と一緒にそれらを実現したいと思っている。

僕が好きなサルトルの言葉にこんなのがあります。

『l'existence précède l'essence』(実存は本質に先立つ)

僕らは何かに導かれるように、自分の選択に基づいて、大学院に入りました。その本質を問う前に、現実的に大学院に「いる」ことを考え、まずやるべきなのでしょう。そう、そういうわけで、ま~、やってやりましょう。
慶應大学SDMでデザイン思考について学んでいるものの、
いまいち「デザイン」という言葉にピンときていない。

「デザイン」ってそもそもアート系の人達がいう言葉だし、
それに僕は新商品を開発する部門の人間でもないし。
だから、デザインといわれても、どうも別次元の話として
受け取ってしまうことが節がある。

で、先日「新経済サミット2013」でMIT Media Lab所長の
伊藤さんによる気になる記事を見た。

「社会全体を真ん中から変えるのではなく、端っこの変なヤツを応援する。
変な人はすごく価値があり、変な日本人は結構多い」

「“おりこうさん”を作る日本の教育が、クリエイティブな人材を殺している。
権威を疑って勝手にやる、やってから仮説を考えるような人材が必要。
クリエイティビティをアンロックしないといけない」と話していた。

なるほど。
言葉尻だけど、この「変なヤツ」というフレーズは、響きがいい。
たしかに、時代をエポックメイクする人は、
マジョリティではなく、マイノリティだし。
ガリレオや、カントやエジソンも変なヤツだったといわれてたけど
時代を作り上げていた。たしかに変なヤツには価値があると思う。

それから、「権威を疑って勝手にやる」というフレーズも素敵だ。
福沢諭吉も「独立自尊」、時代の潮流や政治権力を迎合せずという
独立することを提唱していたし、「躬行実践」、学ぶだけでなく、
実践して、また学べといっていた。

僕自身、「普通だね」といわれるより、「変だよね」
といわれる方が嬉しいと思っている人間だし。
それに権威的な諸先輩方にも平然と文句を言い続け、
常に「生意気」だと言われながらも、やりたいことを
やり続け、それなりに四半世紀を過ごしてきた

言葉尻への共感かもしれないけど、もしかしたら、
僕がやったことや生き方もそれなりにクリエイティブと呼べるもので、
それなりに人生のデザインをしていたのかもしれない。
そういえば大学時代はデザインやらアートやらに関心をもって、
色々なことに興味を持ちながら、大学生活を送っていた気がする。

けど、社会人になってから、目先のビジネスに追われ続け、
クリエイティブやらデザインやら、かくのような言葉に関心を払わずに過ごしていた。
あるいは、自由に拡散するよりも、思考を凝縮して硬直化させた方が、
ビジネスがしやすいとまで感じ、「デザイン」という言葉に、
嫌悪感すらを感じていたようにも思える。

どうやら僕は同じ思考のループをぐるぐるとまわっていたようで、
そしてそこから抜け出せずに、いつのまにか日本人の
典型的なマジョリティになってしまったのではないか、と感じた。

せっかく慶應SDMに行っていることだし、どうだろう、少しリベラルに
デザインの言葉を捉え直して、もっと違った観点からデザインを学んでみては。
そしてビジネスやプライベートや人生のデザインしてみては。
と、この記事を読んで自分自身に問いかけてみる。

きっとデザインってのは、そんな単純な「きっかけ」で始まるものに違いない。
2013.04.21 ご縁について
初めてブログたるものを書きます。
この類のことが苦手なので戸惑いますが、
院の課題なのでしょうがない。

さすがに30年以上生きていると、何かの力に導かれるような経験がたまにある。

①:実存主義から構造主義・ポスト構造主義にはまる。目に見えないシステムの存在に関心をもつ 
②:お客様からシステム思考に関する案件を頂く
③:慶應大学の前野さんにシステム・デザイン思考に関する体験型レクチャーを頂く
④:12月29日に会社で一人で仕事をしているときに、喪失感を感じてしまい、来年も同様の
   過ごし方をすることに疑問を持つ
⑤:『憤の一字は是れ進学の機関なり』佐藤一斎の言葉に出会う
⑥:大学院のホームページを飛び回っていると応募締め切りのギリギリの
   慶應大学SDMと再会する
⑦:先輩方から「慶應SDMは面白い。大学院にいってみたらどうか」と背中を押される
⑧:夜に仕事をしていると、窓から強い風が吹く。(背中を押されるような気になる)
⑧:応募締切ギリギリになって前野さんにお会いし、大学院の目指すMissionと
  前野さんが研究をしたい学生像に共感する。そして大学院に行くことを決意
⑨:奇跡的に合格

こうしてみると短期間のうちに色々な事柄を経験したものだ。
「縁」について辞書で調べてみると、こうある。
『結果を生じる直接的な原因に対して、間接的な原因。原因を助成して
結果を生じさせる条件や事情。「前世からの―」』大辞泉

なるほど、諸行無常、仏様の考え方が根本にあるようだ。
八百万の神様やアニミズムを信奉する日本人にとって
受け入れやすい思想観であったと考えられる。

「歴史というものは、過去から現在までのポイントを事後的に
恣意的に選び出して、線を引いているに過ぎない」とフーコーは
言っていたけど(たぶん)。

たしかに恣意的に選び出したのかもしれないけど、
神様や仏様も悪いようにはしないだろうから、
まずはこのご縁として受け取りながら、
ご縁に感謝し、学業と仕事に挑戦するとしよう。
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